国際TA協会の会員向けの月間情報誌Scriptの2021年5月号に
私の投稿「倫理」についてのコラム
タイトル:Ethics and Reconciling Dissonances(倫理と不協和音の解消)を
TAシュハリズム研究会ブログように書き換えてみました。
こっちの方が、面白いとおもいます(^^・・・執筆後記
私達は知っている……
ちょっと前の海外の人達にとって、
生のお魚(お刺身)や
お酢で味付けしたご飯の上に生の魚を載せたもの(お寿司)を
日本人が美味しそうに食べている!!!! と知った時。
彼らの多くは、眉間にしわを寄せてあるいは、
両手を頬に当て、さも驚き信じられないと言う表情で、
「信じられない!」というようなリアクションをした人達も多かったと思います。
そしてその数年後、
海外の主要都市では、寿司バーが人気を博しました。
そこでは、お箸を上手に使って食べたり、あるいは、
粋に手でつまんで食べるということができる外国人も多く見受けます。
日本食はお箸で食べるものが定着しています。
私個人も、海外の生活風習や食べ物に対して最初は、
「えっ!そんなのあり⁉」という驚きとともに
拒絶反応を持ってしまう出来事も多々あります。
でもある一定期間を経ていつのまにかそれが自分の生活の一部になっていたり、
かえって誰かに勧めていたりすることもあります。
好きにならなくても、最初のあの驚きや拒絶反応というのはなくなり、
少し照れながらも「そんなこともあったわね」という感覚になることもあります。
その一つの例として、私の経験談を一つお話しましょう。
今でも鮮明に思い出すのは、
19歳のとき、アメリカに留学したときの出来事です。
当時、私を受け入れてくれるホストファミリー全員で
サンフランシスコ空港に、お迎えに来てくれたときのことです。
その時は、私はもちろん非常に緊張していたとおもいます。
空港からフレスノという町まで4~5時間のドライブとなりました。
その4・5時間の間、何をしたのか、喋ったのか全く記憶にありません。
唯一覚えているのは、
途中、みんなで立ち寄ったファミリーレストラン、
確かデニーズだったと思います。
そこでの出来事です。
私は緊張のあまりお腹も空いていなかったのですが、
メニューを見ながら、ホストファミリーが注目する中、
私が選んだのは、ハンバーガーの上に、
シチューのようなものがかけられた一皿でした。
何故、それを選んだのかは意味不明!
しばらくして、お料理が私の前に置かれた瞬間に、
文字通り目が点になり、泣きそうになるのをこらえたのを記憶しています。
豆と肉の煮込み(チリコンカーン:豆と肉をトマトでピリ辛に煮込んだアメリカの国民食の一つ)が、お皿から溢れんばかりにかけられていました。
ハンバーガーはほとんど見えず状態のものでした。
私の頭の中でグルグル回ったのが
「こんなところに私は来てしまったのだ」
「これから2年間どうやって生きていくのだろうか?」でした(笑)
緊張感もあり、その上に自分がオーダーしたお料理の悲惨さで、
かすかな食欲も打ち砕かれたことを覚えています。
後で分かったのですが、チリコンカーンは、
ホストファミリーのお父さんのお得意料理の一つでした。
そして、
私は、彼のチリコンカーンが好きになり、今も懐かしく思っています。
これと、「倫理」とどうつながるの?
ここで、 TA理論 で見てみましょう!
今日使ってみた理論は、準拠枠(Frame of Reference)です。
私たちは生まれた瞬間から
色々な人たちに関わってもらい、今に至っています。
まず生まれた家庭の中で聞く言語に始まり、生活音、
生活習慣、風習に始まり、
生まれてから見聞き体験することを全てが
私達のリソースとなって今の自分を作っています。
(個人のリソース abetomo,2018, 参照:ブログ2月26日号)
それを TA では、自我状態のP・A・Cの三つの○を
一つに囲む楕円で示したりしています。
その楕円の中に入っている全ての情報が私たちの準拠枠の中身となります。
言い換えると、私達一人ひとりが持つ
価値観、信条、善悪、慣れ親しんだもの、
ポジティブ・ネガティブな体験、学び、……すべてが含まれます。
自分自身の準拠枠で、私たちは社会に適応、存在しています。
準拠枠は「自分自身」と言っても過言ではないと思います。
その自分の準拠枠に、外部から刺激がやってくるとします。
先ほどの例で言うと、
「生の魚を食べる!?」というのも刺激の一つです。
今までそんな食習慣を見聞きしていなかった外国人Aさんにとって、
その刺激(情報)は、
自分の準拠枠内の情報に無いものなので、脅威の存在となります。
一言で言えば、信じられないことなのですよね(^^
当然、そんなに簡単に自分の中に受け入れることはできず、
しようとしても困難な作業となります。
それは仕方ありません。
準拠枠は自分の準拠枠に合わない刺激に対して、
再定義というシステムが動き出します。
その再定義とは、自分の準拠枠に合わない状況に遭遇すると、
自分の準拠枠の中にある情報でなんとか解決しようと
現実を歪め、自分の中で正当化するシステムです。
例えば、以前絵本で読んだ
怖いいきものが、目の前を走り抜けていく生き物を手づかみで捉え、
生のままで口に運んでいた様を思い出す(笑)
あるいは、
親たちから「決して、お魚やお肉を生で食べてはいけない。
お腹を壊して、大変なことになる」などと言われ続けていたかもしれない。
実際に「生もの」で体調を崩した経験を持っていたかもしれない。
宗教的にタブーとされているかもしれません。
これら情報は、さらに生ものを食べる人種に対しての拒絶要因を強化します。
準拠枠内にあるさまざまな情報は、
その人達の生きてきた家、風習、地域、文化、宗教などすべてを含む背景によって
それはそれなりに正当性があり、役立つ事柄でもあるのです。
自分の中にある限られた情報に、
今、目の前にある新しい現実(そこにも自分と同じような背景があるにも関わらず)に
自分の準拠枠に合わせよとすることに無理があるのです。
自分の準拠枠に合わないものは排除しようとするところに問題が生まれるのです。
ここが「倫理」という視点で、考えて欲しいポイントです。
目の前の出来事に対して、
自分の準拠枠の基準でのみ判断してしまうと、
共存共栄・自律・共同化・共創・多様性の受け入れ、実現はできません。
心理ゲームを生み、人間関係の崩壊を招くだけです。
自分の準拠枠と他者の準拠枠をそもそも合わせる必要がないにもかかわらず、
今回の例のような生魚を食べる日本人と、絵本でみた怖い生き物の映像とを合体し、
新しい解釈というか、現実に存在しないストーリーやモノを生み出し、
自分の中で納得感を生み出す作業を始めてしまう。
このことを、
私達は避けなければならないとおもいます。
少し大げさすぎるかもしれませんが、
そんなストーリーを創造した外国人 A さんは、
その後日本人に会うと、ちょっと緊張してしまい、
逃げ出してしまうかもしれません……こう書くと、
少しマンガチックで、
笑ってしまいますが、準拠枠というのはそういうものなのです。
準拠枠=自分自身とすれば
私達はいつでも、どこでも、
自分の準拠枠に合わせて、奇想天外のストーリーを想像し、
創造してしまう可能性を持っています。
そんな奇想天外のストーリーは、
現実を誇張(話を盛ってしまう、過大評価)あるいは、
現実を値引き(過小評価してしまう、過小評価)で作り上げられています。
(ディスカウントの考え方参照)
それら奇想天外のストーリーが作られているときは、
そうしてしまっていることに、自分では気づきにくいものです。
なぜなら、それらストーリーが作られているのは、
準拠枠の中にある情報が元になっているからです。
そしてその準拠枠の中身は、自分自身にとって
内容がポジティブであろうが、ネガティブであろうが
当たり前、当然、自分にとって真実と思い込んでいるものなのです。
じゃ、どうすればいいの??
一番気づいてほしい事は、自分自身が覚える違和感です。
言葉にしてしまった時、
行動に出てしまった時、
考えている時に、気づく違和感。
普段の生活の中で、
外からの刺激、周囲の人達や出来事に対して覚えた違和感を
大切に取扱ってみることをおすすめします。
私達は、もともと I am OK-You are OKに位置するので、
その場を離れた瞬間に敏感になることです。
I am OK-You are OKから離れたときに、
私達は、再定義をし始めています。
・・・ディスカウンティングの始まりです。
身近にいるTA仲間に、「どう思う?」って、
気軽に相談してみてください。
TAを学んでいらっしゃる方々には、おわかりいただけると思いますが、
スーパービジョンはその違和感の源に気づく
とても効果的なプロフェッショナルなツールです。
普段の生活の中で、職場での
普段使いの「倫理」の考え方、視点を
広めたいなぁ~~と思っています。
あべともこ