人(ひと)は人(ひと)の心(こころ)あり
己(おのれ)は己(おのれ)の心(こころ)あり
各々(おのおの)其(そ)の心(こころ)を心(こころ)として以て(もって)相交(あいまじ)はる
之(これ)を心交(しんこう)と謂(い)ふ
「松陰先生のお言葉」シリーズ、最後にバトンを渡された青沼ますみです。
『私のTAジャーニー』(青沼担当の4回、8回)と絡めて、私が選んだこの言葉をご紹介します。
このお言葉をTAで解釈をしてみると、
あなたにはあなたの考えや想いがあります。私にも私なりの考えや想いがあります。
もともと私とあなたは違う人間です。
それぞれの人生計画、価値観・信条(準拠枠/frame of reference)は異なっているのだから、
お互いそこをちゃんと理解したうえで、胸襟を開き、
自ら関わり、心で語りあい共に歩みたいものですね。
という感じまではいけるでしょうか……(笑)
別の言葉で言うなら、アサーティブネスというような言葉も当てはまるのかもしれません。
更に深く、相手の存在の大切さに意識を向けると、この松陰先生のお言葉は、
まさにTAの哲学的信条であるI’m OK You are OK そのものではないかと思うのです。
しかし、これがなかなか難しい!
TAに出会って15年、ここまで学んできてもなお、難しいと感じる「人との関わり」があるように思います。
それは日々の何気ない人との関わりの中で難しいなあと感じることもあれば、今からご紹介するような、人生の役割からくる人間関係のなかで起こることもあります。
私は今、大阪にとても近い兵庫県A市のいわゆる都会暮らしですが、実は農家の次男の嫁です。
主人はN県の農家の次男坊、兄が後を継いでいます。
就職先の会社で知り合った技術者の主人と結婚して、35年を超えています。
結婚した当人同士は、当初からものの考え方や働き方、価値観なども非常に近く、違和感なくこれまで一緒に生きてきました。
しかし、俗にいう嫁姑の関係に関しては、やはり色々悩むところがありました。
岡山の城下町で生まれ父親の仕事の関係で兵庫に移住、一時「公害の街」の印象が強かったA市で育った貧乏サラリーマンの一人娘の私と、代々裕福なコメ農家の一人娘で、親が決めた婿養子をもらい、家族に囲まれた育った義母とは、当然ですが、全く異なった価値観/準拠枠を有しています。
ですから、新婚時代からつい数年前まで、私はその“違い”の差異に悩んできました。
家庭を中心に生きるという点は同じでも、妻・母親の役割と、一人の働く女性としての存在意義、社会の中の役割、それに伴う周囲との関係の作り方、お金に対すること、学ぶことに関すること、さまざまに違っていました。
私は幼いころから、父を支える母やキャリアウーマンの叔母の働き方と生き様にふれ、自分の「親の自我状態」の中に取り込みながらも、青年期・成人早期で自分なりの成功体験や挫折体験を糧にして、人が働くということ・働き続けるということの意義・意味を組み立て、実際に自分がどう納得のいく働き方をするのか?について、「成人の自我状態」を使って形成しています。
一方、義母は親たちが決めた婿養子をとり、コメ農家という仕事と家庭を守ることにのみ力を注いで生きていました。もちろん義理の両親とも働き者で、近所でも評判の仲良し夫婦でした。
ご先祖様を敬い家族の為に農業と家事をしっかりやる。
味噌も野菜も花までも、みな手作り。
農協の集まりや近所の集まりで習ったお料理を、家族の為に作るという毎日。
ほうれん草のお浸しにだってこだわりを持っていました。
しかし私からすると、
・プレゼントはもらっても開かない(送ってくれた人の前で開くのは、マナーだし心遣いだと思うけど)
・残り物は家族に強要して食べさせる(絶対作りすぎでしょ??)
・来てほしくない親戚なのに、来たらにこにこ愛想笑い (なんじゃそりゃ??)
・冷蔵庫のウインナーは賞味期限3日過ぎてる (食べれるのか、これ……?)
そしてそして、「なぜお義母さんは、家族のなかの小さいことにそんなに拘るのか?」
今から思えば、すべてが小さな視点のズレなのに、その当時はいちいち“そのこと”が気持ちに引っかかっていました。
この小さな視点すべてが、考え方の違い、生き方の違い、価値観の違い、準拠枠の違いなのですが、当時の私は、自分の視点こそが正当だと強く思っていたのですから、
義母がお豆の炊き方を何度も自慢したり、近所や親せきの噂話を言ったりするたびに、
ふんふんと相槌をうちながら、心の中では“ウッヘ~~~意味わからん!”ってなってました。
一方義母からしても、都会の嫁の私にたくさんの?? がついていたのだと思います。
次男は国立大学卒、大手企業のエリート技術者で高給取り
何の不自由もない家庭の主婦なのに、なぜ外で働きたいとか言い出すのか?
司会のプロってなんでしょう? 結婚式の司会は、ふつう友人がするものだろう……?
研修の講師ってどんな仕事なの? ビジネスマナー? それは教えるものなのか?
そしてその後は、
“嫁が何かを始めた…、
TAって何? 何語? もしかして新興宗教? 孫たちは大丈夫か~~~?”
今振り返ると、大笑い大賞がもらえるレベルの話ですが……当初は大変だったのです。
TAを学び始めて2年目の2006年、国際TA協会のカンファレンス(年次総会・大会のような集まり)がトルコで開催され、それに参加したとき主人の実家は大騒ぎになりました。
『トルコ~~~? ますみさんは、何かそっちの宗教にハマっているのかい?』という電話があり、主人がさまざまな説明に奔走するという事態になりました。
TAの国際大会の多くは、夏に開催されます。
一方青沼家では、義父と結婚当初からの約束で夏と冬の休みは、必ず家族みんなで帰省してきなさいというルールがあり、暑い夏も寒い冬も主人と二人で娘たちを連れて帰省していました。
その大事なルールを破ってまで、嫁が単身トルコに行ったのには、なにかとんでもない理由があるのでは? と義母たちは不信感で一杯だったようです。
そうです、 行先は農協の団体旅行で行ったハワイではなくトルコ! ですから……苦笑
結婚当初から最近まで、私の職業キャリアについて、主人の実家で話題に上ることはほとんどありません。
その当時は、フリーランスという概念も田舎の人には難しいし、仕事内容も説明がしにくい事もあったと思います。ずっと応援してくれている主人や娘たちも、実家で起こる不穏な空気は、自分たちの居心地に影響すると感じていたので、一族が集まっているときは、『ママの仕事の事には触れない』という暗黙のルールが存在していました。
この作戦はほとんどの場合には有効でした。だって波風が立たないのですから~~~
が、時としてどうしようもない危機的状況を生み出すことにもなります。
ある時、義母が亡くなりました。
それは、201×年、ドイツ大会に参加したときのこと。
初めてのドイツですので、安全を考慮して行きも帰りも仲間と同じ旅程で組んでいました。
2日目の夜、頭に入りきらないほどの英語と日本語通訳の言葉に、疲れ果てて宿舎にもどり携帯を見たら、
主人から義母が亡くなったとの知らせが入っていて、もうびっくり!
大慌てで国際電話をしました。
高齢であることから、もともとの調子も悪かったのですが、急変したとのこと。
「急なことで僕も死に目には会えなかった。今から帰っても間に合わない。君は最後まで目的をやり遂げてきなさい。」という主人の理解と励ましに支えられ、私も「そうだ! ここまで来たんだ。目標を果たそう。しっかり勉強して帰ろう……」と想いを強くし、予定を全うしたのです。
田舎の葬儀は地域の慣習により、JA農協の差配の元、素晴らしく盛大に執り行われました。
私の事情は主人が義父・義兄に説明し、一旦納得してくれたと主人から聞いて安堵していました。
が、途中で雲行きが怪しくなり、主人からの指示で関西空港に降り立ってすぐ、義兄に状況説明の電話をしました。
義理の兄は義母とよく似ています。考え方・感じ方、態度や発言までが
四十九日の法要の前夜、義兄から長々とお説教を食らいました。
夫婦で10回以上は頭を下げたように記憶しています。
義母の葬儀より、海外の(理解不能な)用事・仲間の方を優先させたこと、
それはありえないことで、親戚に恥ずかしい
家族はこういう時こそ団結するべきなのに!!
もろもろ義兄の熱い想いを聞かされました。たぶん義母が生きていたら同じことを言ったと思います。
もちろん私も主人も一切反論などはせずに義兄の話を聞きつづけました。
が、実のところ私自身は、彼が熱く自己陶酔して訴えることに納得していませんでした。
主人も心の中では“兄さん、あなたと僕の生き方は違うんだよ”と思っていたようですが……
201△年・夏、3年間の闘病生活に終わりを告げて、私の父が亡くなりました。
生前父とじっくり話し合い、岡山の親戚には告げず、家族だけで見送る計画を立てていた私は、
その計画通りに父を見送りました。 私の企画立案力と実行力には定評があります。
もちろん、うれしいサプライズもありました。
娘の嫁ぎ先の(父より高齢の)おじい様とおばあ様が、足の痛みを押して通夜に駆けつけてくださいました。
最後の看取りでお世話になった訪問看護のナースさんたちまでもが、多忙を縫って、制服のまま見送りに来てくださいました。
4歳の孫は、ひいじいちゃまとの別れにさめざめと泣き、葬儀場スタッフさんがもらい泣き…。
父はこれで大満足だったと思います。もちろん、私も大満足でした。
私達親子の終活プロジェクトが、心の通った人たちに囲まれて、無事に終わったのですから……
義兄夫婦は、田んぼの世話や村の選挙委員になっていたなど忙しい事情で来阪はしませんでした。
当時の言い方からすると、「何をおいても駆けつけてくれるはず」の義兄ですが……
もちろん、私も主人も、こちらの家族だけで見送るので無理をして参列しなくて良いと伝えたから、兄たちは参列しないことを選んだのだと理解しています。
『生きている者First! 生きている人の生活や仕事を大切にしよう』
『お別れは、無理のない範囲で、生きている時にしておけばよい』
そう、形ではなく心。 心のつながりを大切にしよう!
と夫婦で同じ気持ちを共有していましたので、とても心穏やかでした。
自分の存在や価値観、心の在り様を値引きせず、
相手の存在や価値観、心の在り様を尊重して
自ら関わり、お互いに心を開きあいながら生きていく
I’m OK You are OK
昨年夏・父の3回忌を迎えました。
年末、コロナ渦にもかかわらず、義兄夫婦が来阪してくれました。父のお墓参りにです。
『よく来てくださいました』 『うん、やっとお墓参りにこれたよ。お墓ってどこ?』
『お墓は四天王寺さんの合祀墓です』 『そうか……』
(小さな仏壇に向かって手を合わせ) 『お位牌は?』
『位牌はありません。この写真(両父母、両義父母)にいつも語り掛けています。』
『う~~ん、なんか雰囲気出ないな……』 チリーーン(オリンの音)
オリンの音を聞きながら
(嫁いだ娘たちに、残したくないものがあるのですよ、私達には……)と私の心の声
主人と義姉は横で苦笑い、義兄はなんだか不満そうな顔のまま、なむなむな~む~。
“お兄さん、私達はお互いに、生き方の違い・終活の違いを認め合うような、本当に理解し合える関係には最後までなれないのかもしれませんね……
でも、家族愛を熱く語りながらオヤジギャグ連発のお兄さんのことを、
私も主人も娘たちもみな、案外、好きなんですよ!!”
松陰先生のお言葉が並ぶ[学びの道]を、
志同じ、心交深いTA仲間と歩きながら、
人は人の心あり
己は己の心あり
各々 其の心を心として以て 相交はる
之を 心交と謂ふ
この碑に出会ったときの、心の奥にピンと感じる小さな感動が、これまた、自分だけの小さな経験にピタリと突合した瞬間、“合点がいく、腑に落ちる” という体験が手に入りました。
これが生活の中に根づくTAの醍醐味かもしれません。
目の前の、意味を持つ言葉から受け取る先達の英知
それが自身の経験と重なりあって初めて、自分なりの『TA実践知』となることを
今回も味わい感動した、山口4人旅でした。
松陰せんせ、ありがとうございました。
今年もTA Shuharism研究会は、守破離の道を邁進します!
担当講師は私と心理療法分野の関真利子講師の2名同席体制で開催します。
一生ものの心理学に出会う2日間にご一緒しませんか?
以上